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ブログ201103-201112

橋本努

 


 

 

■大地震による原発爆発を考える

20110314

 

 この度の大地震で、被災された方々、犠牲になられた方々のすべての皆様に、心より、お見舞い申し上げます。 津波によって、一瞬にして街が消えてなくなるという事態に、私は心底、震えます。亡くなられた方々の命に、できるだけ寄り添いたい。何度も、お祈りを捧げます。この苦境をしかと受けとめ、なしうることを的確に考え、対応していきたいと思います。

 

 地震について、考えます。昨晩、あるニュースの解説で、こんなコメントがありました。今回の地震は、日本では江戸幕府開闢以来の、400年に一度の大地震なのだ、と。

 でも、だからといって、原発の爆発を、防ぐことはできなかったのでしょうか。400年に一度のリスクだから、「仕方がない」ということになるのでしょうか。

 

 世界全体では、20世紀だけでも、今回と同じくらいの規模の地震が、4回も起きています。これは後知恵にすぎませんが、私たちは、あらゆる地震の情報を検討したうえで、この程度の規模の地震にも耐えうる原発を、定期的に設計しなおす機会をもつべきだったように思われます。(後知恵で偉そうなことを言ってすみません。)

 

 元技術コンサルタントの吉田章一さん(73)は、314日の朝日新聞「声」の欄で、次のように書いています。「福島第一原発について知るかぎりでは、自家発電での正規のバックアップ機構が地震のため作動せず、消防自動車のポンプで代用したという。消防自動車用のポンプで代用できるのであれば、どうしてそれと同等なものを正規のバックアップに設定していないのかが問題点なのだ」と。

 

 これは要点を突いた問題提起であると思います。私たちは、このバックアップ問題を考えなければなりません。原子力発電所の爆発は、はたして防ぐことができたのかどうか。この問題に対して、私たちはいま、国民的に納得のいく議論をして対応策をたてなければなりません。原子力発電の安全性は、いま根底から揺らいでいます。

 

 電力に依存しすぎた私たちの生活も、問題です。 この40年間で、日本では電力の消費量が約10倍になった、というデータもあります。実際問題として、いま政策的に考えるべきは、例えば、エネルギー消費に追加的な税を課すことかもしれません。そのような課税は、一方では、技術革新を促すと同時に、他方では、経済と生活スタイルの転換を促すと期待されます。

 

 電力の消費量を抑えながら、いかにして経済を活性化することができるのか。いかにして豊かな経済社会を築くことができるのか。ライフスタイルの転換を媒介にして、経済を活性化すること。そのようなシナリオをあらたに描くことが、いま、求められているように思われます。はやく復旧して、もとのポストモダン消費社会に戻ればいい、ということではないと思います。

 

 反原発運動についても、再評価が必要です。反原発運動は、1970年代に盛り上がりをみせたものの、次第にジリ貧となりました。原発リスクの議論は、専門家レベルに移ってしまい、民衆の危機意識は、「非科学的」なものとみなされてしまいました。これは、リスクに関するコミュニケーションのパラドックスです。

 

 リスクは、それがどれほどのリスクなのか、専門科学的にしか、確定することができません。それ以外の判断は、素人的判断としての「危険」とみなされます。専門的判断としての「リスク」と、民衆的な不安としての「危険」のあいだには、超えがたい線が引かれてしまいます。「危険」は、非科学的な不確実性として、制度的には、うまく扱うことができなくなります。しかし、原発が爆発するかどうかは、やはり私たちの想像力に依存しているのであり、それはリスクを超えた「危険」の問題でもあるのです。この「危険」に対する意識を、私たちは政治的に表現し、訴え、また生活レベルで再考しなければなりません。「危険」と「リスク」のあいだに、豊かなパイプを設けなければなりません。

 

 今回の地震は、天災であるとしても、その危険をあらかじめ想像して対処する力は、やはり私たちの理性と想像力にかかっています。その意味で、天災は、私たちの理性と想像力の非力を露呈させます。私たちはいま、科学技術に対する信頼を猛省するとともに、他方では、科学技術に対する不信に陥らない仕方で、この挑戦を受けとめなければなりません。

 

 

 

■チェルノブイリと比較しうるレベルを想定する

20110315

 

 この度の大地震で、ご家族を失われた方々、愛する人を失われた方々、家屋を失われた方々、避難所で「一日一個のおにぎり」しか口にできなかった方々、いまなお毛布がなく寒い思いをされている方々、想像もつかないくらい大変な思いをされている方々、、、被災された方々すべての皆様に、謹んでお見舞いを申し上げます。そして、亡くなられた方々の命に、何度もお祈りを捧げます。

 

 昨晩の段階で、起こりうる最悪の事態と思われたこと、すなわち、「高濃度放射能の放出」という事態が、本日の朝刊で伝えられました。

 

 マス・メディア(あるいは情報発信元の東京電力)にとって重要なことは、客観的な情報をいち早く報道することです。でもそれ以上に重要なことは、パニックを未然に防いで、人々の安全を最大限に確保することです。かりに客観的な情報が正確に伝えられたとしても、それを受けとめる側に冷静な解釈力と判断力がなければ、大衆現象としては、パニックに陥るかもしれません。緊急事態においては、国家が事実認定力を持ったり、あるいは報道を規制したりすることは、ある程度まで仕方のないことだと思います。ただその一方で、私たちは、あらゆる仕方で、国家に対抗するメディアにも、耳を傾けなければなりません。

 

 これまでの報道をみるかぎり、事故の報道過程は、大きなパニックをなんとか防いでいるように見えます。しかしそれは、うまくできすぎたシナリオのようにも見えてきます。パニックを防ぐために、リスク情報が小出しに出されているような感じもします。たとえばもし、事故の一日目で放射能漏れの可能性が報道されたとしたら、どうなっていたことでしょう。

 

 いずれにしても、私たちはいま、最悪の事態と最善の(最も最悪ではない)事態をともに考えて、冷静に行動しなければなりません。起こりうる最悪の事態を想定したうえで、しかも数年先の日本社会に希望を見出さなければなりません。

 

 数年後の日本社会を見通すためには、たとえば、復興のための公債を特別に発行して、地域限定の貸付制度を新たに提供する。そのような仕方を含めて、経済復興を展望することが必要になってくるでしょう。もちろん、その際には同時に、震災地域をどのように復興するのか、産業構造をどのように転換させていくのか、といった産業政策との兼ね合いで、政策のパッケージが組まれなければならないでしょう。計画的な復興をデザインするためには、少し時間がかかるでしょう。

 

 その前にまず、これから起こりうる最悪の事態を想像してみます。 本日315日の『朝日新聞』夕刊の見出しは「福島第一 制御困難」でした。夕刊一面には、こう書かれています。 「極めて深刻な放射能放出が始まった。すでに福島第一原発の敷地内では非常に高い放射線量が検出されている。今後、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原発事故と比較して語られることになる」と。

 

 起こりうる最悪の事態は、チェルノブイリでの被爆死(推計4000人)と比較しうる事態でしょう。 福島第一原発の2号機は、現在、格納容器の一部である圧力抑制室がすでに破損しています。原子炉が、これからすべて溶けるとすれば、溶けた原子炉から、放射性物質が環境に出てくる可能性があります。この可能性を、過度に悲観視する必要はありませんが、いまは一つの可能性として、受けとめなければなりません。依然として、緊張が続いています。

 

 

■最悪の「レベル7」

20110417

 

 去る412日に政府は、福島における原発事故の評価が、チェルノブイリとならぶ「レベル7」である、と発表しました。すでに事故から一か月が経ち、しだいに人々の心も風化してきた矢先のことです。

 「最悪のレベル7でも、この程度なのか」と感じている人もいるかもしれません。一か月前の時点で「最悪」と思われたシナリオは、もっと悪いものでした。例えば、東京から人々が逃げ出す、東京が機能しなくなる、そして私たちは、遷都を含めて、都市機能の分散を考えなければならないという、そういうシナリオであったと思います。

 もちろん、これからそのような事態に陥る可能性も、皆無ではありません。しかし今の時点で、福島第一原発の事故が、はたして原子力エネルギーの推進に歯止めをかけるほどのものなのか。それを見定めることは、まだできません。チェルノブイリでの原発事故は、ロシアにおける原子力エネルギーの開発に、歯止めをかけませんでした。

 いずれにせよ、問われていることの本質は、時代の大転換であり、このメガ級の問題を前にして、私たちは思考停止状態に陥っているようにもみえます。例えば私たちは、消費を自粛しないで、日本経済をしっかりと支える必要があると助言されていますが、その一方で、消費マインドは低迷しています。いったい私たちは、これまでと同じような仕方で消費生活を送ることができるのでしょうか。これまでと同じような生活を送ったとしても、満足できないのではないでしょうか。私たちは、生活スタイルそのものを問われています。ところが、どんな生活スタイルが望ましいのか、まだ確信を持って言うことができません。

 実は今年の初めに、私はSynodos/WebRONZAのサイトに、「ロスト近代」の到来、という拙文を書きました。芹沢さんから、新たな年を展望するような、年頭にふさわしいものを書いてほしいという依頼があって、それでちょっと抽象的な仕方で、時代認識のフレームワークについて書いたのです。「ロスト近代」というのは、いま私が書いている本のタイトルでもあるのですが、要するに、「ポスト近代」が終焉して、新しい時代がはじまった、という時代診断です。

 私たちの意識は、まだこの時代の大転換に追いついていないかもしれない、という診断を、私は年初にしました。ところが本当に大きな転換点は、暴力的な仕方でやってきました。311日に起きた、東日本大震災と原発事故のことです。この大事件は、「ロスト近代」への時代転換を、いわば無理やり覚醒させることになった、といえるでしょう。私たちは、否応なしに、しかも急速に、新たな時代のモードに巻き込まれています。しかしそれがどんな転換なのか、まだよく分からないでいます。いったい、「レベル7」という原発事故の評価は、例えば広島・長崎における原爆や、「敗戦」という時代経験と比べて、どんな意味を持つのでしょうか。

 それを見定めるためにも、必要な思想資源をできるかぎり手がかりとして、新たな時代の座標軸を提起していかねばなりません。「ロスト近代」の到来とは、どんな射程をもつ時代経験になるのか。こうした問題について、引き続き、考えていきたいと思います。

 

 

■資本主義の解剖

20110505

西部忠著『資本主義はどこへ向かっているのか』NHKブックス

 

西部忠様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

さっそく読ませていただきました。すばらしい本だと思います! 西部先生のこれまでの、十数年間にわたるご研究が、この一冊に凝縮されています。ハイエク研究、地域通貨研究、貨幣論研究、市場の内部化や一般化などに関する、マルクス経済学を継承する研究、等々。そのエッセンスが緻密に論じられ、市場の新しい全体像を鮮やかに提起しています。渾身の一冊であり、これまでの西部先生の到達点を一気に公開したものになっています。

 

スタンスとしては、できるだけ市場を媒介にしない関係が望ましいとしながらも、地域通貨は、市場をさらに信頼関係の中に埋め込むという、新しいフェーズとして、大いに意義があるということでしょうか。そのヴィジョンは、これまでの資本主義論のなかでは論じられていない、まさにフロンティアの理念を持っていると思いました。

 

そして今回、とくに刺激を受けたのは、インターネットと貨幣の相同性です。自律分散型の情報装置であるということ、そして、パケットのような乗り物(媒介物)を利用して、形式的に操作可能な仕方で、さまざまな財や情報が流通するということ。こうしたアナロジーでもって、ネット社会における貨幣の意義について、あらためて考える機会を得ました。また議論できることを、楽しみにしています。

 

 

■サンデルのレトリックにつっこみを入れる

201105

大澤真幸『「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学』NHK出版新書

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

大澤社会学の最近の展開は、多方向的で、目を見張るものがあります。本書はそのエッセンスを規範理論に即して、分かりやすくまとめています。とても刺激を受けました。最近、サンデルの講義が一つのブームとなって、規範理論に関心が集まっていますが、本書のサンデル批判は、痛快です。

 

例えば、友人から、とても趣味の悪いネクタイをプレゼントされたとしましょう。「ありがとう、すばらしいネクタイだね」と言えば、うそになるでしょう。しかし、「このネクタイは悪趣味だね」と言えば、相手を傷つけるでしょう。こういう場合は、「わあ、こんなの見たことないよ」と言えばよい、というのがサンデルの主張です。このように言えば、嘘をつかないと同時に、相手を傷つけない。

 

ただこのような発言は、嘘をつくよりも、もっと悪い、というのが大澤先生の主張ですね。カント的な定言命法に従うとすれば、本当のことを言わなければならない。けれども、それでは社会をうまく運営できないから、嘘を言わずに、相手を傷つけないような「レトリック」というものが、社会の中で発達していくことになります。レトリックのコミュニケーションは、しかし、「世間」「世俗」のなかで、しだいに「神の視線」を失っていきます。人々は、レトリックによって本質を隠すようになり、しだいに超越的な審級そのものを失っていくことになるでしょう。

 

そのような世俗社会は、しかし、「善い社会」と言えるのでしょうか。それが問題です。サンデルは、定言命法の審級を、たんに無害化するだけの世俗的コミュニタリアンなのかもしれません。しかし大澤先生は、神の審級を踏まえて、善き社会を考えます。

 

結局、世俗社会に対する審級が、ありそうでない、なさそうである、というところで、現代の批判理論がまわっている。そこで大きな問題提起として、善き社会は、宗教に開かれた次元を担保すべきである、というのが本書のメッセージであると思いました。

 

 

■民主党の経済政策を批判する視点

 

松原隆一郎『日本経済論 「国際競争力」という幻想』NHK生活新書

 

松原隆一郎先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 2008年から2010年にかけて、朝日新聞社で先生が担当された論壇時評の委員会に、私も二年間参加させていただきました。本当に、いろいろと学ばさせていただきました。その節は、ありがとうございました。

 

 本書は、その2008年以降の日本の論壇について、先生の見解をまとめています。一つの大きなビジョンに結実していると思います。随所に、ネタの仕込みが効いていますね。あらためて、この数年間を振り返ってみますと、民主党政権の誕生によって、諸政策は、どのように変換されたのか、ということがやはり大きな関心事になります。いわゆる新自由主義から、別の福祉国家主義に変化したのでしょうか。それともむしろ、ある種の重商主義(円安の下で輸出産業によって国富を増大する政策)から、別の「主義」になったのでしょうか。

 

本書で指摘されているのは、農家の戸別保障政策の難点、国立大学予算の削減(一千億円規模)、日本芸術文化振興会への予算削減(五億円規模)、の三つです。民主党は、いわば、国際競争力の開発と伝統的価値への支援を削って、その代わりに、子ども手当てや農家への保障でもって、お金を普遍主義的に配分しよう、というわけですね。こうした政策は、普遍主義的なリベラリズムといえるかもしれません。いずれにせよ、本書を拝読して、いかに小生がこの数年間、見落としてきた点がいかに多いか、ということに改めて気づかされました。

 

 

2010年のサブカル・ガイドとして

 

CYZO/PLANETS Special 『PRELUDE 2011』

 

宇野常寛様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 毎回、これでもか、という気合の入った編集力に脱帽です。2010年のサブカルについて、映画、漫画、ゲームなどが総括されています。一覧できるので、昨年はこういう時代だったのか、といろいろと気づかされます。個人的には、昨年は子どもと一緒にハートキャッチ・プリキュアを見ていたのですが、紹介されています。こういうのも、大人が見ている番組なのでしょうね。

 表紙を飾った、橋本愛さんも素敵でした。

 

 

■政治思想、相関社会科学の収穫

 

斎藤純一編『政治の発見3 支える』風行社

 

斎藤純一様、五野井郁夫様、井上彰様、重田園江様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 風行社から刊行中の『政治の発見』シリーズ、第三巻は、とても読み応えあります。それにしても、相関社会科学出身者が、三名も加わっているのですね。

 

 考えさせられる論点がいろいろとあります。連帯というものが、企業中心ではなく、国家中心に再編されています。これまで連帯から排除されていた、非正規雇用の労働者が、包摂されるような連帯を実現するためには、国家が普遍的に雇用保険を提供する、そういう仕組みが必要になってきますね。すると「連帯」は、いったん、企業レベルでは衰退し、新たな集合的選択によって、再構築されなければならなくなりますね。いま求められているのは、「連帯の再編」であり、そのための意識的な掴み取り、ということになるでしょうか。

 

 もう一つ、芸術系の大学に入学するための条件は、あまり努力に依存せず、能力に依存する場合が多いので、あまりアファーマティヴに入学定員枠を広げすぎないほうがよい、という考え方について、考えてみます。このような考え方は、例えば、小論文や面接を課すような大学入試の場合も、同じように当てはまるかもしれませんね。

 

 でも私は、反対に、アファーマティヴな定員枠(低所得層の家庭に育った学生の枠)を、広げるべきではないか、と思っています。というのも、芸術系の特殊な学科試験や、小論文や面接試験では、親の影響を受けやすく、能力にも努力にも依存しない、家族資本や地域資本のようなものが、大きく作用しているように思われるからです。こういう資本の格差を是正して、機会の実質的な平等を図るためには、アファーマティヴな定員枠を広げてみてはどうでしょう。ここでポイントは、機会の平等という理念を、「能力」と「努力」という二つの基準で考えるのではなく、「能力(素質)」、「努力」および「家族・地域資本」という三つの観点から、制度的に考える、ということです。

 

 

■社会学は「意味」、政治学は「価値」を求める?

 

盛山和夫『社会学とは何か』ミネルヴァ書房

 

盛山和夫様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は、盛山社会学のエッセンスですね。と同時に、社会学理論の入門書にもなっています。これまで、盛山先生が論じてきたさまざまな事柄が、一つのビジョンとなって結実しています。これまでのご研究の成果が視軸となって、一貫した、新しい社会学の入門書が書かれているのですから、社会学者として、まさに「かくあるべし」という模範を示しているのではないか、と感じました。本書の出版を、こころより、お喜び申し上げます。

 

 重要な論点は、リベラリズムとコミュニタリアニズムをアウフヘーベンする社会学の企て、というものだと思いました。いわば、「意味」派社会学の立場から、規範理論を総合する、という企てでしょうか。

 

 リベラリズムは、(1)「個人は自らの善の観念、すなわち自己の存在の意味、価値、アイデンティティなどを主体的に形成している」、(2)「しかし、人々の善の観念はバラバラである」、(3)「よって、われわれは、人々の善の観念に依存することなく、それを超えた視点において規範的原理を構築すべきだ」と発想します(本書238)

 

 これに対してコミュニタリアニズムは、(1)「個人の自己、すなわちその存在の意味、価値、アイデンティティは意味世界において与えられる」、(2)「人々の意味世界は同一である」、(3)「よって、その意味世界において規定される内容が、規範的に妥当すべきだ」と発想します。

 

 しかし、リベラリズムもコミュニタリアンもうまくいかないので、盛山先生は、次のような立場を主張されています。(1)「個人の自己、すなわちその存在の意味、価値、アイデンティティは意味世界において与えられるが、同時に、その意味世界を主体的に生み出す」、(2)「しかし、人々の意味世界はバラバラである」、(3)「にもかかわらず、何らかの共通に受け入れることができるような意味世界の部分を新しく見つけるべきだ」、と。

 

 例えば、雇用保険とか年金制度というのは、国家の共通善として、コミュニタリアン的に求められるのかといえば、そのように考える人もいますけれども、それらはたんに、「リスクに対する制度的なヘッジにすぎない」、と考える人もいるでしょう。しかし、たんなるリスク・ヘッジにすぎないとなると、これらの制度は崩壊してしまう危険があります。やはり多くの人々が、そこに「価値」以前の、あるいは「リスク・ヘッジ」以上の、「共通の意味的世界」というものを、背景として構築していかなければなりません。「共通の意味を理解する」という仕方で、リスクに対する安定した共通の対処がはじめて可能になるからです。そのような仕方で、福祉制度は、社会学的な仕方で正当化され、維持されなければならないのでしょう。

 

 これはロールズ『正義論』の第三部のテーマですね。共通の意味世界があってこそ、連帯は強化されるという。

 

 「保険(リスクへの理性的対応)」と「意味世界」と「共通善」という三項図式のなかで、「意味世界」が規範理論において果たす機能(役割)について、あらためて考えさせられました。

 

 

■クリムゾンのレッド

 

雑誌『RATIO』特別号「思想としての音楽」講談社

 

片山杜秀様、青山遊様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 もう半年前の刊行になりますが、楽しく読ませていただきました。これは本当に読みどころ満載ですね! 充実した内容と編集力に、脱帽です。最初の菊池成孔さんと片山杜秀さんの対談の出だしからして、うまくできています。なぜロックを聴かないのか。それがこの種のジャンルに入っていくための、音楽の本質に関わる導入論になっていますね。

 

 それから、なんといっても、アファナシエフの論稿に刺激を受けました。彼は、ピンク・フロイドのコンサートに行って、本当に衝撃を受けているんですね。

 

 「私の肉体は反応し、ある意味において傷つけられた ――内部から来るとき、音楽は危険である。最近、わたしは次のような新聞記事を読んだ。「軍は新型の対戦車装甲貫通弾の配備を完了した」。偉大な芸術家が語りかける仕方も同じである。」と。

 

 アファナシエフは、キング・クリムゾンを敬愛しています。クリムゾンの『レッド』はモーツァルトのレクイエムに相当するといいます。なるほど、クラシック界の異端児は、プログレッシヴに学んでいるわけですね。クリムゾンの偉大さを、あらためて発見しました。私はクリムゾンの「ディシプリン」が一番好きです。

 

 

■ハイエク主義は信任義務を認めるべきか

 

楠茂樹『ハイエク主義の「企業の社会的責任」論』勁草書房

 

楠茂樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 信任義務(fiduciary duties)とは、受託者が本人に対して、本人の最善の利益に向けて、忠実かつ誠実に行動する義務のこと。例えば、企業は、株主の最善の利益に向けて、信任義務を負っている、と言えるかもしれません。あるいは企業は、「本人」の概念に、株主以外のステイク・ホルダーを含めて、広く社会一般に対して、人々の最善の利益に向けて行動する義務がある、と考えることもできるでしょう。このような「義務」の観点からすれば、長期的にみて、企業がたとえ株主の利益を最大化しなかったとしても、それは信任義務違反ではない、ということになるでしょう。

 

 信任義務論は、信任の対象となる「本人」が「株主」の場合は、経済的に組織された集団をコミュニティとみなします。あるいは「本人」というものが、「同じ社会に暮らす市民すべて」を意味する場合は、すでに「社会的に構成された集団」を、コミュニティとみなすでしょう。企業は、こうしたコミュニティに対して、何らかの「義務」を道徳的・法的に負う、と考えるでしょう。

 

 しかし開かれた社会においては、こうしたコミュニティの単位が要請する道徳的義務に縛られることなく、企業は法の下で自由に行動することができます。ハイエクであれば、コミュニティに対するいかなる信任義務も、必要ない、とみなすかもしれませんね。本書は、そのような立場から、ハイエクの「開かれた社会」という秩序構想を支持します。

 

 ただハイエクは、中間集団を慣習の基礎とするような「開かれた社会」の秩序を構想していた、と解釈することもできるでしょう。企業は、政府・国家を単位とする「人工的な社会」に対しては道徳的義務を負わないとしても、自生的な中間集団である「地域コミュニティ」や、企業共同体に対しては、ハイエクは、なんらかの信任義務を認めるかもしれませんね。

 

 これは解釈の問題ですが、ハイエク主義をどのように発展・継承するか、という問題に踏み込みます。一つの思想的な展望は、中間集団に対する信任義務を認める方向に、開かれた社会の秩序を描くことです。ただこのように発想すると、信任義務論としては、とても複雑な判断をすることになり、難しいかもしれません。自然法という慣習法によって調整できる範囲で、信任義務論を位置づけることが、どのような議論になるのか。いろいろと思考をかきたてられました。

 

 

■編集者、出版関係希望者、必読です!

 

永江朗『筑摩書房 それからの四十年 1970-2000』筑摩書房

 

永江朗様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 筑摩書房の40年間を振り返ってみると、これだけバラエティに、いろいろな仕掛けがあったとは。体系、講座、セミナー、ビデオ、漫画、物流、等々。出版社の全体を、どうやって運営するのか。そのノウハウが詰まった本ですね。しかも、編集者としてどう生きるべきか、という指南書にもなっています。

 

 これから出版業界を希望する人々にとって、本書はまさに、必読でしょう。筑摩書房は、一度、会社更生法でもって、出直しているので、その当時の状況から、学ぶべきことは多いと思いました。

 

 それにしても、ちくま学芸文庫や、ちくま新書などの企画から、私たちはこれまで、多くを得てきました。これらの企画は、そんなに長い歴史ではないということに、あらためて驚きます。『金持ち父さん 貧乏父さん』、『思考の整理学』という二つのミリオンセラーの企画も、なるほど、と思いました。

 

 最後に、本書のなかで、小生の発言を引用していただき、ありがとうございました。

 

 

■国家は社会学的に定義されなければならない

 

牧野雅彦著『マックス・ウェーバーの社会学』ミネルヴァ書房

 

牧野雅彦様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は、ウェーバーの大著『経済と社会』を、分かりやすく解説した入門書です。主として、牧野先生の著書『国家学の再建』をベースにして、重要な事柄がコンパクトにまとめられ、展開されています。

 

 最初の三つの章を読むと、いわゆる「国家」論というものが、ウェーバーにおいて、それまでの政治学や法学から、社会学に移行せざるをえなかったということが、よく分かりました。社会学は、既存の政治学や法学では、「ああでもない、こうでもない」といった議論を、実に明快に、理論化してしまう。しかも、国家の本質を、あるいは正統性の本質を、よく捉えるわけです。

 

 当時のウェーバーは、ドイツの君主政の問題と、それを論じる状況を踏まえている。ハラーからはじまり、トライチュケやケルゼンに至る国家論の流れは、本書において、とても分かりやすくまとまっています。ウェーバーの議論が出てくる知性史的な背景について、多くを学びました。

 

 

■アウラを求めているのか

 

仲正昌樹著『ヴァルター・ベンヤミン』作品社

 

仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

本書は、ベンヤミンについての、六回にわたる講義の内容です。ベンヤミンの思想を分かりやすく読み解いています。

 

ベンヤミンによれば、オリジナルよりも、複製芸術のほうが、創造の余地があるという。技術的に、複製芸術の分野で創造の可能性が広がっていくと、私たちもはや、「アウラ」、いまここの一回かぎりの体験というものに、あまり価値を置かなくなるかもしれません。複製芸術の社会では、「オリジナル」を求めて出かけていくことは、重要ではありません。オリジナルとの対面は、創造性を掻き立てるための経験としては、絶対的な魅力をもたなくなります。オリジナルであるとか、オーラがあるとか、唯一無二であるとか、「いまここ」の経験とか、非反復的一回性とか、そういう特殊化された体験は、しだいに芸術的な権威を持たなくなります。

 

現代人であれば、ウォークマンやノートパソコン、アイパッドのように、どこにでも持ち出せる「可動性」に、経験としての大きな価値を認めるかもしれません。「オリジナルではなく、多くの複製」、「オーラではなく、圧倒的な量とスピード」、「唯一無二ではなく、無限のコピー可能性をもった保管」、「いまここではなく、いつでもどこでも持ち歩けるという可動性」、「一回性ではなく、無限の反復可能性をもった体験」、といった特徴が、創造性を喚起することになるでしょうか。

 

創造性を重んじる人は、創造的な作品をそのまま追体験することには、あまり意義を見出さないでしょう。むしろ作品に別の仕方で接することが、新しいきっかけを生み出すのでしょう。オリジナルを重んじるのは、ある種の批評家の精神であり、それは哲学的な意味での「観照」生活の理想の観点から、芸術を捉えているのかもしれません。観照的生活は、しかし、活動を重んじる人々にとっての理想ではありませんね。批評もまた、ますます創造喚起的であることが、求められているのかもしれません。

 

 

■新しいウェーバー像の誕生

 

野崎敏郎著『大学人ヴェーバーの軌跡』晃洋書房

 

野崎敏郎様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

多くの一次資料に丹念にあたりながら、大学人としてのウェーバー像を新たに浮かび上がらせた労作です。長年のご研究の成果をまとめられましたことを、心よりお喜び申し上げます。

 

シュモラーは、弟子たちを次々に大学のポストに就職させて、一つの大きな学派(歴史学派)を育成しました。シュモラーは、階級利害の代弁者は、大学教員たり得ない、という信念を抱いていたようですね。そのような「非党派性」を武器にして、彼は、党派的な研究者たちを退けていきます。ところが、そのような「非党派性の欺瞞」に対して、真正面から挑んだのが、ウェーバーでした。

 

大学では、なにごとも「価値中立的」に教えなければならないのでしょうか。そのような非党派性は、結局のところ、社会全体の利益を代弁するような価値観点を、背後から忍ばせて、福祉国家を正当化する党派的な議論になってしまう。ウェーバーは、そのような関心から、シュモラーの欺瞞性を見抜いていきました。

 

もう一つ、マリアンネ・ウェーバーによるウェーバー伝は、不備が多いということで、本書は、マリアンネの描くウェーバー像とは、別の像を提起しています。新しい像を打ち立てるという探究は、本当に、骨の折れる作業であったと思います。ウェーバーは、大学では、きわめて特異な職位を与えられていたようですね。発病、休職、退任(降格)願、等々。大学での職務に関するデリケートな問題が、適切かつ詳細に再構成されています。

 

それにしても、ウェーバーが、歴史に残る大著を書くために、これほどまでに苦しい経験を乗り越えたということに、あらためて驚きます。本書を通じて、私は、ウェーバーの精神生活を、さらに深く理解することができました。

 

 

■資本主義をめぐる講義集

 

平井俊顕編『どうなる私たちの資本主義』上智大学出版

 

平井俊顕様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 講義集ですね。いろいろなアイディアがちりばめられていて、大いに参考になりました。それにしても、物価変動が激しい社会では、あるいはインフレ率が高い社会では、会計計算というものが、意味をなさなくなる、という指摘は重要です。貨幣の価値尺度機能をできるだけ安定にすることが、合理的な計算の基礎になる。だから貨幣は、その意味で、価値を安定的に保つように、制御されなければならない。

 

 物価を安定させるためには、例えば、ケインズ的な介入政策が必要になるでしょう。もしケインズ的な政策がインフレ率を上昇させる原因になっている場合には、できるだけ市場介入を減らすべきであり、反対にインフレ率に問題なければ、ケインズ的な介入政策を推進してよい、ということになるでしょうか。

 

 ブルーノ・アーマブルの『五つの資本主義』は、啓発的です。スウェーデン、デンマーク、フィンランドは、「北欧型」の新自由主義社会といえます。高福祉でありながら、市場競争を徹底している。そのようなモデルは、どこまで理想的なのでしょうか。比較制度分析の視点から、この問題を規範的に考えることが、現代の経済思想に求められているように思われます。

 

 

■イギリス歴史学派について

 

佐々木憲介「ロジャーズによる歴史の経済的解釈」

 

 佐々木憲介先生、先日、小生は風邪のため研究会に出席することができず、申しわけありませんでした。ご高論を拝読いたしました。とてもスリリングで、物語的に構成されており、ロジャーズという研究者を通じて、方法論の問題点が浮かび上がってきます。

 

 ロジャーズによるアダム・スミス評価は、つまり、イギリスの歴史学派が、古典派経済学の方法論を、事実による検証という点では、批判していなかったことを示しています。

 

 さらに興味深いことに、ロジャーズは、中世のデータを用いて近代の経済理論を検証している点です。「行為の多元性」「社会現象の統一性」「経済学説の相対性」という、イギリス歴史学派の特徴は、まだロジャーズにはみられないわけですね。

 

 ロジャーズによる「貧困」の歴史的説明は、当時の国王と廷臣たちの強欲に還元する点で、あまりにも図式的な説明に見えます。こうした説明は、はたしてどんな方法論なのでしょうか。それは歴史学派の方法論として「決して十分なものではない」という評価でもって、片付けてよいのでしょうか。強欲による説明が、歴史学派における「説明の個別性」という方法論に照らして、正当化できるものなのかどうか。この説明の困難を克服する場合に、別の「個別な説明」のほうが「よりよい」という仕方で、学派全体が発展するものなのかどうか。こうした点が疑問に残りました。

 

 

■共同体を去るということ

 

ドゥルシラ・コーネル『イーストウッドの男たち マスキュリニティの表象分析』、吉良貴之・仲正昌樹監訳、御茶の水書房

 

吉良貴之様、仲正昌樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 アメリカの「真の西部」で、どのようにすれば「一人前の男」になれるのか。映画におけるこうした舞台設定は、そもそも仮想的であって、歴史的に実在した「一人前の男」の理想ではない、ということですね。失われた「西部」を「夢想」して、自分がそこでいかに振舞うかを演じる。そのような時代錯誤的な仕方でしか、現代においては、「一人前の男」というものが表象されない、ということです。

 

 コーネルのイーストウッド解釈では、マスキュリニティの理想を追求することが、パロディ化されています。あるいはアイロニーによって、冷ややかに捉えられています。そうしたアイロニーの自己反省意識は、しかし、マスキュリニティの理想が、じつは「空虚」である、「不在の自我」である、ということを教えてくれます。それでもなお、マスキュリニティの理想が求められるとすれば、それは、どれだけの道徳的な傷を残すことになる。いろいろと論じられていますが、まとまった結論があるわけではありません。どれも根源的な問題を問うています。

 

 アイロニーによって自己反省意識を高めた空虚な自我、というのは、近代的な自我の一つのモデルでしょう。これはアメリカでは、例えば、リバタリアンの流れ者という、一つのタイプになる。リバタリアンの「流れ者」は、いかに困難な「自我」を形成せざるを得ないのか。共同体を去るということは、他者とどんな関係を結ぶことになるのか。その困難について考えさせられました。

 

 他方で、アイン・ランド的な都市型のリバタリアンとは対照的なものとして、「西部的リバタリアン」をもっと理想視するような思想があってもいいのではないか、とも思いました。それがないから、結局、映画批評的なアプローチが必要になるわけですね。

 

 

■安定志向の罠

 

田中理恵子『平成幸福論ノート』光文社新書

 

 田中理恵子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 とても面白く読ませていただきました。経済社会学のホームとなる出発点は、やはり、こういう議論ではないか、と思いました。現代の経済現象を大局的に捉えながら、いろいろな出来事やデータを解釈していく作業ですね。ネタの仕込みが随所に効いています。しかも一つの筋の通ったテーマが浮かび上がってきます。

 

 いま私たちに必要な議論は、文明の衰退論です。日本はいずれ、衰退する。そうであれば、一歩退いた生活に、私たちは満足を見出すことができなければなりません。一歩後退した地点に「幸福」を見出すためには、何が必要でしょう。他国との競争に勝つ、といった目標を掲げるよりも、無理しないで、幸せに暮らすこと。そのような関心が広まると、しだいに、「成長」と「幸福」が乖離してくるかもしれません。

 

 成長を願う人は、幸福になることができない。あるいは、幸福を願う人は、成長することができない。そんなギャップが生まれるかもしれませんね。しかも、安定志向で幸せを求めても、実は幸せになれない、という逆説も生じるので、そのような社会での処世術は、なかなか難しいものになるでしょう。

 

 この他、日本の男性は世界一孤独であるとか、生涯未婚率が急上昇しているとか、日本人は年齢とともに幸福度が下がるとか、高齢者と孫世代の所得格差は一億円であるとか、いろいろ考えさせられました。

 

 GNHの指標も、対抗的で興味深いです。とくに、資源消費量(エコシステム)の少ない順に、「幸せ」のランキングを考えるという点。どれだけ資源消費量を抑えて、各種の指標で「幸せ」になるか、という問題関心ですね。こうして、いろいろな指標について議論する状況が生まれているのは、歓迎すべき現象です。

 

 

■アイロニーの機能とは

 

西角純志『移動する理論――ルカーチの思想』御茶の水書房

 

西角純志様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 ルカーチの美学がもつ意義について、勉強させていただきました。世紀末のモデルネという問題設定で、当時の状況とルカーチの問題意識が、鮮やかに蘇ります。このルカーチの問題設定は、私にとっても、他人事ではない、人生の本質的な関心をかきたてます。

 

 「芸術のための芸術」というのは、例えば印象主義に特徴的な姿勢ですが、ルカーチによると、そうした再帰的なテーマ化は、芸術を麻痺させる審美主義、あるいは芸術至上主義であって、よろしくないというのですね。審美主義者は、現実の生から逸脱してしまう。仕事のために、内的な魂を投影することしかできなくなってしまう。それでは現実の文化は豊かにならないのであって、いわゆるブルジョワジーは、そのような審美主義に陥っている点がよくない。「生の全体性」に到達するには、審美主義という、純粋化の方向で関心を徹底するのではなく、もっと「生」が豊かになるための「美」の方向性が模索されるべきだ、ということでしょう。

 

 アイロニーというものが、主観性の自己止揚にとって、最高度の自由を与えるという指摘も、示唆的です。慣習に従うだけの世界は、空虚な精神を生み出してしまう。これに対して、世界とアイロニカルに向き合う批判精神が、主観の魂を問題化することができる。けれども、慣習的世界を問題化した「主観」は、いったい、自身が何物であるのか、「故郷喪失性」の罠に陥ってしまう。慣習の外に、自己の本質的な魂を位置づけるような文脈は、なかなか見つからないわけですね。

 

 空虚な自我に帰還するアイロニーの実践と、これまた同じくらい空虚な自我に陥る慣習の実践とのあいだに、私たちは、対立関係を認めることができます。アイロニーが、たんなるアイロニーに終わるのではなく、何らかのロマン主義的・全体的な、反資本主義体制の構想へと至るとき、それは真に、魂を高次化させることができるのでしょう。そのような企てとして、社会主義というものが、美学的精神論として意味をもつ理路があるのでしょう。このアイロニー的主体化とその克服としてのロマン主義こそ、19世紀から20世紀にかけての、社会主義の運動を支えていたものではないか、と思いました。いろいろと触発されました。

 

 

■不可能な革命に身を乗り出す勇気

 

大澤真幸著『社会は絶えず夢を見ている』朝日出版社

 

大澤真幸様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 かなり興奮して読みました。重要なことが、ストレートに、しかもいろいろなネタの仕込みとともに語られています。思想的に、重要な本であると思います。

 

 特に、ルター、カルヴァン、カトリックという三つの宗派の流れが、現在の福祉国家体制のパフォーマンスに、どのような影響を与えているのか、という分析です。北欧型の「普遍的な包摂」という理念について、思想的にあらためて検討すべきテーマを与えられました。とにもかくにも、シグルン・カールの研究を受けて、大澤先生が思想的にルター派の意義を解釈している点。先生の解釈から、さらにどこまで進むことができるのか。大いに思考をかきたてられました。

 

 もう一つは、革命の可能性についてです。現代において、革命の精神、あるいは革命の企ては、どのような歴史的意義を持ちうるのかについて、本書の記述は、可能な最善の論理を提示しているのではないか、と思いました。過去を書き換えることで、過去を救済する、という関心ですね。過去に救済されなかった魂はたくさんある。これらを誰が救済できるのかと言えば、それは真の革命家によってである、ということになる。まったく別の第三者の審級という観点から、いまのときを叩き出すように、歴史を解釈していく。そういう企てこそ、現代において可能な革命の本領ではないか、と納得しました。

 

 本書は、連続講義の第一弾ということですね。第二弾を、楽しみにしております。

 

 

GNP指標の問題点

 

根井雅弘編『現代経済思想 サミュエルソンからクルーグマンまで』ミネルヴァ書房

 

根井雅弘様、藤田菜々子様、神野照敏様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

現代の経済思想の諸学説が、このようなテキストのかたちで広く読まれることは、とても意義深いことだと思います。冒険的な企画でありますが、これは重要な一歩であり、経済学史研究者たちは、こうしたアプローチの仕方で、現代的な、思想そのものをストレートに扱う研究へと、誘われるでしょう。

 

反対に言えば、現代の経済学者たちが歴史に名を残すとすれば、それは思想的な観点をもって研究に当たっている場合ではないか、と思いました。この点で、ガルブレイスのような経済学者は、今後、広く研究されるのではないでしょうか。

 

都留重人の研究業績として、GNP指標をさまざまな角度から検討し、また批判した点が、やはり重要だと思いました。生活の必要経費が高くなる、取引契約が複雑になりコストが上がる、無駄が制度化される、資源が枯渇したり環境が汚染されるコストを考慮していない、長期的な資源配分に無駄が生じる点を考慮していない、といった点です。こうした指摘はいずれも、経済思想の探究に向かう際の、導入的な議論になりますよね。この他にも、いろいろと勉強させていただきました。ありがとうございました。

 

 

■福祉思想の三つの文脈

 

小峯敦編著『経済思想のなかの貧困・福祉』ミネルヴァ書房

 

小峯敦様、太子堂正弥様、松山直樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 1910年代から20年代にかけての福祉思想は、第一に、マーシャルからピグーの系譜、第二に、異端のオクスフォード出身者たち(ラスキンの影響を受けたホブソン、トーニー、コール)およびポランニーの系譜、第三に、現実主義者たちの系譜(キャナン、チャップマン、クレイ)、という三つの流れがあるのですね。この整理で、随分と見通しがよくなりました。

 

 それにしても、やはり歴史に残るのは理論であり、現実に密着した政策論議というのは、その時代の文脈を超える理念的なメッセージを含むわけではなない。これは、理論の含意を現実に引き出すという「判断力」の次元と、現実の問題を思想的に深化させるという「思想力」の次元の違い、ということになるでしょうか。

 

 本書に収められた諸論文は、いずれも高い水準で、しかも、共有された問題に対して、ストレートに探究しています。どの論文からも、多くの示唆を得ました。巻末の人物一覧も、役立ちます。

 

 

■日本人は他人を信頼しない、政府を信用しない

 

井手英策/菊池登志子/半田正樹編『交響する社会』ナカニシヤ出版

 

井手英策様、菊池登志子様、半田正樹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 現代の福祉国家の位相をめぐる最新の議論を踏まえた論文集です。

 

 第三章、井手先生の論文「調和のとれた社会と財政」に紹介されているデータは、とても興味深いです。International Social Survey Program, “Citizenship 2004”のアンケート調査ですが、「他人と接するとき、相手を信頼できるか、用心したほうがよいか?」という質問に対して、日本人はなんと、最低の信頼度を示しています。北欧諸国はとりわけ、他人を「大抵信用してよい」と答えるのですが、日本人の場合、「大抵用心したほうがよい」「いつでも用心したほうがよい」と答える人の割合が最も多いのです。アメリカ人よりも、日本人のほうが、他人を信頼していない、というデータ結果です。

 また、同じ調査で、「大よそ政府の人々は信頼できる?」という質問に対しても、日本人はダントツで、政府を信頼していないことが判明します。政府を信頼できない、と答える人の割合が、60%以上の国は、ドイツと日本のみ。これにオーストリアがつづきます。アメリカ人は結構、政府を信頼していることが分かります。

 この調査から分かる日本人の特性は、コミュニティや人間関係のあり方が、「結束的」な共同価値を求めるものではあるが、「他者との関係を接合する」ような、開かれた共同性を構築する方向にはあまり向かわず、結果として、個々の共同体を超える「政府」に対しては、あまり信頼を寄せることができない、ということではないでしょうか。

 こんな心性で、はたして増税による福祉国家の再建は成功するのでしょうか。ユニバーサリズムの手法であれば可能である、ということなのかもしれませんが、それが実践的に問われているように思いました。

 

 

■現実的な政策の道筋をさぐる

 

宮本太郎編『働く 政治の発見2』風行社

 

宮本太郎様、田中拓道様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

 本書は主に、ヨーロッパの福祉国家の現状を分析する諸論文から構成されています。

 

 労働世界を再編するための四つの条件として、宮本先生が指摘しているのは以下のとおり。@賃金のあり方を再設計すること。男性稼ぎ主の安定雇用の世界ではもうだめ。A非正規労働者の能力開発の機会を生み出すこと。B女性の労働、ワークシェアリングのために、保育や介護の公共サービスを充実させること。C見返りのある仕事を作り出して、共働きであれば生活が維持できる条件を生み出すこと。(139-140)

 

 ホール/ソスキス編『資本主義の多様性』にもとづく分類で、「自由主義型市場経済」と「調整型市場経済」という二つの類型がある。(以下、西岡晋論文より。149頁以下参照、)これによると日本は依然として、アングロサクソン諸国とは異質の、「調整型市場経済」に位置づけられる。

 近年では、全体として、「自由主義型市場経済」の諸国よりも、「調整型市場経済」の諸国のほうが、経済的なパフォーマンスが平均してよい結果になっているという。

 論争的な点として、ソスキスによると、「自由主義型市場経済」は、「多数代表制、二大政党制、単独政権、多元主義」といった政治システム(排他的で競争的で敵対的)と結びつくのに対して、「調整型市場経済」は、「比例代表制、多党制、連立政権、コーポラティズム」といった政治システム(包摂的、交渉的、妥協的)と結びつく傾向があるという。はたして、この経済システムと政治システムの結びつきは、たんなる偶然なのだろうか。それとも、理想の政治のための経済的基礎というものがあるのだろうか。